国際協力 Developing World

草地賢一氏の想い出

堀本 隆保

 関西NGOのひとつPHD協会の長らくリーダーであった草地賢一氏がこのミレ二アムのあわただしいなか、なくなられました。まだ、本当にお若い働き盛りでしたのに、ご病気によるとはいえ、残念なことです。(逝去のときは姫路工業大学で教鞭をとっておられたとのこと)

 私が、このJICAで事業担当として勤務するきっかけになったのはさまざまなひととの出会いゆえでありますが、このひとの影響は非常に大きかったと思います。

 開発の世界で活躍しているひとというと世界銀行や国連機関ではなばなしく働いているひとや米国・英国の大学院の研究者を思い浮かべますが、このひとはそのいずれでもありません。そして、このひとが海外協力や緊急援助の世界で残した実績については決して低からぬものであるものの、ほかのかたの記述にゆずるとして、このひとの私に与えた、開発エリートや研究者はもとよりチェンバース(編注:サセックス大学国際開発研究所の参加型開発で影響力の強い教授)以上でもあったその”インパクト”について述べたいと思います。

 このひとは、”牧師”でした。

 10年ちかく前、私が、大手企業のサラリーマンとして広島に住んでいたころあるとき(平成元年前後)ひとりの男が、私にあまり身に覚えのない苦情を言って来たことがありました。私が当時、ボランティアとして荒川純太郎牧師主催の「アジアに学ぶ会」の会報編集を担当していたとき、その会報に「神戸にあるNGOのPHD協会が地方自治体から資金をもらっている」と書いたことについての苦情でした。(実は自治体から公益指定法人の指定を受けて寄付免税がされているという話を間違えて書いたのであります)

 その草地というPHD協会の事務局の男は、電話で、会ったこともない私に「うちは政府や自治体からびた一文もらっちゃいねえぞ!」とか怒鳴りだしたのですっかりこちらも当惑してしまいました。こちらの間違いではあるものの、ずいぶん失礼な男だと思ってあまり縁のないことを望んでいました。ほどなく、その男が、PHD協会の研修生を連れて神戸から広島にやってくると聞きました、アジアに学ぶ会の交流会にも参加するとのこと、そこで結局その男と会うことになったのです。

確か秋の終わり頃の夕方だったと思います。荒川牧師の広島牛田教会の木造の集会場の2階で、小柄だが体格のいい丸顔で鋭い目つきをした、でも表情の柔和な色の黒いその男に初めて会いました。そのとき、研修生、インドネシアなどから来られた若者が意外に少なくわずか3人なのにはびっくりしました。以前、やはり農村の途上国の若者を受け入れるNGOのアジア学院から来た研修生は数がかなり多かったのにどうしてこの団体は、と不思議に思いました。

 草地氏は、説明しました、この研修生はそれぞれアジアの途上地域の農村、漁村等でこれはと思う若者を選んで連れてきたのだという。PHDとは、PEACE、HEALTH、 DEVELOPMENTの意味で岩村昇(日本キリスト教海外医療協力会)の精神を元に設立した団体だと。ようは途上国の貧困地域で見込みある若者を日本につれてきて、帰国後に自分の地域の開発に役立つことを学ばせるという方式、いわば草の根の若いリーダーを育成することで途上国の貧しい地域の開発に寄与する団体だということです。だから、わずかの人数の研修生を吟味してよりすぐって、受け入れて育てるのだそうです。寄付したお金を使うのはこの若者たちのためだということを支援者にはっきり見せるために、こうやって地方キャラバンをしているのだということです。

 その若者たちは、皆、真面目でひとなっつこく、しかも自分たちの地域をどうするかたとえば漁村を振興するにはどうするかを真剣に考えていました。日本の漁協などについても良いところは取り入れたりするとか言っていました。皆、将来の地域のリーダー足り得る人物というのもけっして誇張ではありません。草地さんの彼ら、(彼女ら)に対する愛情の深さも、はっきりと感じられました。草地さんが言うには、わざわざ日本につれてくる若者は、日本で学んだことを自分のためでなくその地域に還元できる人物でないといけない。地域で支持されていて、しかも長老などのいいなりにならずに自分の考えをはっきり実行できる若者を受け入れているのだ、とのことでした。当たり前のことを言っているのです。でも説得力はありました。

 草地さんは、その夜、教会の集会場で、われわれに対してスライドを上映しました。アジア各地で起こっている、貧困による悲劇についての写真がその内容でした。なかでも、フィリピンの地主が雇っている自警団による地域のNGOのひとたちへの虐殺行為の写真は目を覆いたくなるものでした。殺す自警団の若者も貧しいがゆえ高給欲しさに雇われてひとを殺している。殺されるほうも貧しさからの脱却を考えていて活動をして殺されている。この矛盾を解決することの大切さを感じました。フィリピンの左翼ゲリラNPAと政府との対立があることが原因であるのは知っていましたが、貧困によるしわ寄せは常に弱いものにのしかかることが示された内容でした。

 草地さんは、牧師でした。彼の周囲のかたから、苦学して大学の神学部を出られたとのちに聞きました。横浜YMCA勤務を経て、PHD協会に転じたとのことでした。牧師としての、神の使徒としての厳しい生き方が、彼の開発に関する考えに込められているとも思いました。そして、私もPHD協会の賛助会員となり、その後は、草地さんとも親しく話せるようになってきました。

 PHD協会のパプアニューギニアの男の研修生を私の広島の家でホームステイさせたことがあります。その若者は、農村のリーダーで品性も良く、我が家はその夜は彼の楽しい話で盛り上がりました。特に戦争中に彼の父が死んだ日本兵を丁寧に埋葬した話には私の両親も感心しました。ところが、翌日、その彼が私の家を出て草地さんと合流したとき、少し具合が悪そうだったので、草地さんが血相変えて「昨日はどうだったか」と厳しい口調で私を問い詰めました。正直言って、私は腹が立ちました。食事は勿論、風呂、寝るところ、すべて気をつかったのに、失礼なと思いました。でもとりあえず、昨日ちょっと食欲がなかったこと以外は何も変わりなかったことを淡々と説明しました。ようは少し風邪気味だったようです。すぐに彼も良くなって、何も問題なかったのですが、草地さんも少し慌てたことを後悔された気配でした。草地さんは、時に、日本国内移動で何十キロも車で移動するときなどもすごく安全に気をつけたりすると言ってましたが、研修生の健康や安全に気を配ることのあまり、こういった行動をとったのだと思いました。

 さて、その後、私はJICAに入団し、平成8年より研修員受け入れを名古屋国際研修センター(現在は、中部国際センター)にて3年以上担当していました。そのとき、集団型を中心とするJICA研修の矛盾を嫌というほど感じました。日本で得た技術、知識を自分のためにのみ使おうとする研修員、日本で学んだことをとうてい生かせそうにない研修員、そんな受け入れもやむないとはいえ、まったくないとは言えません。なんせ、年間7千人以上受け入れるのですから。

 つまり、さきほど、当たり前だといったことがけっして海外協力の世界では当たり前でないことも多い訳のです。そんなとき、研修の本来の姿、海外協力の本来の姿を教えていただくきっかけとなった草地氏のことをよく思いだしました。そして、JICA研修の改善に努力することを使命としていろいろ頑張ったものです。また、健康、安全について先ほどのエピソードを笑えないようなドジも自分自身が研修員の健康や安全に気をつけるあまり、恥ずかしながら行ったことがあります。

 また、草地さんは、地域の実情を踏まえたうえでの協力の大切さについても良く話していました。ときに、「PHDに移って給料は本当に安くなったが、やりがいがあって感謝、感謝の毎日だ ....」そう言っておられたこともあります。たとえ収入が少なくても団体の自立性を高めるために、政府の補助金と一線を引くNGO本来の態度を忘れないかたでした。ゆえ、最初のエピソードのようなことが起こったのでしょう。私がJICA入団する前の平成3年を最後に結局もう会うことはありませんでした。私がJICAに入ったことは草地さんもお聞きになったそうですが。草地さんは、私にとって海外協力の本来の姿を体で示してくれたひとなのです。いろいろひとの評価は難しいと思いますが、私は素直にこのひとに感謝しています。

 フィリピンのNPA以外のもうひとつのゲリラ、モロ解放戦線。その紛争の和解地域、つまり平和開発発特別地域の貧困地域の保健行政改善をJICAとNGOのAHIとの協力による研修コースとして、私は名古屋時代に作りましたが、このような貧困対策の仕事ができたきっかけのひとつが草地さんです。この研修コースの話を感謝を込めてもう一度、草地さんと話すことができたらよかったのにと本当に残念に思う毎日です。



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