国際協力 Developing World

チャンプ定松の開発学入門

定松 栄一

この原稿は、当時著者の定松氏が所属していた開発NGOシャプラニールのボランティア情報誌「月刊V」に、1994年に掲載されたものです。著者の許可を得て「国際協力マガジン」に再掲載されました。


1.「開発」ってなんだ?
2.開発と住民参加
3.開発における情報収集と分析
4.開発と技術革新
5.開発と環境
6.わたしたちはなぜ開発協力に関わるのか?


1.「開発」って何だ?

 「開発学」の最初の講義は、どの大学でも大抵「開発とは何ぞや」というテーマで始まるのだが、実はこれがクセモノで、私の場合まずここで大きくつまづいてしまった。私がマンチェスター大学で選択したコースは、経済学部と教育学部のどちらの講義も受講しなければならないように編成されていたのだが、同じ「開発」という言葉を使っていても、その意味するところはまるで違っていて、すっかり頭がコンガラガッテしまったのだ。

 まず開発学のリーダーとも言うべき経済学部では、「開発」に対する考え方の変遷を次のように説明していた。

 国連が発展途上国への開発援助を開始した1950年代当時、西側の経済学者は、「世界は欧米を中心とする近代的国家とその他の伝統的国家に分かれ、あらゆる国が、かつて欧米諸国がたどったのと同じ近代化のプロセスを通じて生活を向上させていくことができる」と考えていた。すなわち工業化によって国の産業構造を農業中心から工業中心へと変え、国全体の経済を成長させることによって、国民一人あたりの所得を向上させるわけだ。このパターンで戦後、世界でもっとも目覚しい高度経済成長を達成したのが、ほかならぬ日本であった。筆者自身、小学校や中学校の社会化の授業で、日本がいかに産業構造を転換し、経済成長に成功したかを、帯グラフを使って説明を受けたのを覚えているくらいだから、「開発=工業化による経済成長」というイメージを持っている人は多いだろう。

 しかし「近代化論(Modernization Theory)」と呼ばれるこの考え方は、1970年代に入って厳しい批判にさらされることになった。その急先鋒となったのが、第三世界でいち早く工業化に着手し、挫折したラテンアメリカ諸国の経済学者たちだ。彼らの主張は「世界経済は「中心(=先進工業国)」と「周縁(=発展途上国)」によって構成されており、両者間の不公平な貿易関係のために富は絶えず周縁から中心へと流れるようになっている。だからこのシステムが変わらない限り、発展途上国の経済発展はありえない」というものだった。「従属論(Dependency Theory)」と呼ばれるこの考え方は、当時、特に発展途上国の政治リーダーの間で好評を博したが、(そりゃそうだろう。「自分たちの経済政策がうまくいかないのは、先進国のせいだ」と言えるのだから)、同時に先進国の開発関係者にも大きな影響を与えた。「南の国が貧しいのは、先進国による搾取のためであるから、先進国のあり方が変わらなければ、南北問題は解決できない」という現在の一部のNGOの主張はこの従属論の影響を強く受けているようだ。

 従属論は北のNGOの説得には成功したが、世界銀行はこれに真っ向から反論した。世銀は「発展途上国の工業化が成功しなかったのは、先進国との貿易関係が不公平だからではなく、途上国政府が自国の産業を保護しすぎたため、市場での競争原理が働かず、結果として非効率、コスト高で低品質の製品を作り出す工業しか育たなかったためだ」とした。従って解決策としては「市場への政府の介入を極力排除して競争を促し、途上国の安価で豊富な労働力を生かして国際競争力のある産業を育成し、輸出を推し進めなければならない」と主張した。世銀は、この考え方に基づき1980年代以降「構造調整政策(Structural Adjustment Programs)」と呼ばれる一連の政策を実施しており、現在でもその基本的な考え方は変わっていない。

 さて、私のように、農村開発の現場で直接役に立つ知識を学びたいと思ってやってきた人間には、これらの説明はあまりにグローバル過ぎて、どこかピントがずれているような気もしたのであるが、その一方で「ナルホド、どの説もそれなりに説得力はあるし、確かにこれまでの開発に対する考え方の変化は良くわかるナ」と感じてもいた。

 ところが、次に出た教育学部の授業で、担当教授が「開発を経済成長だけでとらえようとするのは、全くの誤りである」と話し始めたので面食らってしまった。彼の主張は「国連ができてはや40年が経ようとしているのに、南北問題は解決に向かうどころか、かえってますます悪くなっている。南の国々では今も一日に4万人の子供たちが死んでいる。これは広島原爆の犠牲者の数に匹敵する。経済成長のみを開発の尺度とするこれまでの考え方に何か重大な誤りがあると考えざるを得ない」というものであった。経済学部の教授の論理的な説明とは全く異なるものではあったが、特に「Something must be very wrong」という最後の言葉は、非常に強いインパクトをもって私の胸に響いた。それから、彼はそれまで私が全く聞いたこともない「開発」について語り始めた。

 1970年代後半、それまでの従属論とは全く異なる視点から、やはり近代化論を批判し、新しい開発のイメージについて提唱し始めたグループがあったのだ。「もう一つの開発(Another Development)」と呼ばれる、その考え方はだいたい次のようなものであった。

 「従来の開発は常に政府や国際機関が主役となり、まず都市部のエリート層を中心に工業化を進め、それによってもたらされる経済成長の効果がやがては農村部の貧しい回想にも波及するという仮設に基づいていた。しかし実際には経済成長の恩恵は貧しい人々には届かず、むしろ発展途上国内部のエリート層と貧困層の搾取関係を強化することになった。この過程で、貧しい人々は開発のプロセスから排除され、全く発言権を得られないようになってしまった。従って、将来あるべき「開発」は、これら貧しい人々自身が主役となり、彼ら自身のニーズや文化を出発点とし、地域にある資源を利用するとともに、貧困を生み出す社会構造を変革するものでなければならない。」

 この考え方の特徴は、開発の経済的側面だけでなく社会的側面も重視していることと、開発における地域住民の役割を重視していることだ。経済成長がイケナイといっているわけではないが、それがどのように達成されるのか、その過程を重視していると言い換えてもいいかもしれない。では実際に現場では何をやるのかと言うと、たいてい途上国の貧しい階層の人々の小さなグループを作り、自分たちの生活の問題は何かを話し合って、自分たちでできる範囲で生活向上のための活動を進めて行く。グループによる生活向上活動と言っても、先立つものがなければどうしようもないので、グループで貯金をしたり、援助団体からお金を借りたりする。また、簡単な仕事をはじめようにも、知識がなければうまくいかないので、文字の読み書きを習ったり計算のしかたを習ったりする。援助もこれらのニーズに合ったものをグループの成長に従って提供していくわけだ。結果的にこれらの活動は、貧しい人々が開発のリーダーシップを取れるように「力付けていくこと」になるので、最近では「エンパワーメント(Empowerment)」という言葉も良く使われるようになった。

 このように、同じ「開発」という言葉を使っていても、その意味するところは、それを使っている人の立場や考え方、目的によって様々だ。だから、ある人が「開発」について語っている場合でも、それがどのような意味で使われているのかをよく見極めないと、頭がコンガラガッテしまうのだ。今回ご紹介した様々な「開発」のうち、皆さんはどの「開発」に最も共感されただろうか。ひょっとすると「これが正しい開発です」などというものはないのかもしれない。

 シャプラニールがバングラデシュで進めいている開発協力プロジェクトは、最後に紹介した「もう一つの開発」に最も近いと言えるだろう。そこで、この連載では主にこの「もう一つの開発」を中心に、様々な視点から皆さんといっしょに開発協力の問題を考えていきたいと思う。

*「開発学」について
 開発学=Development Studies とは、大雑把に言えば、「南北問題の解決のために第三世界の開発をいかに進めたらよいかを研究する学問」ということになる。取り扱う範囲は、経済学、政治学、社会学、分化人類学、教育学、農学、林学、水産学、工学等と非常に多岐にわたっており、また視点も地球規模の非常にマクロ的なものから草の根レベルのミクロ的なものまで様々だ。従って研究者が自分の立場をこれらのうちのどこに置くかによって「開発」という言葉のとらえ方自体が異なってくるため、「これがいわゆる開発です」といった説明をすることは難しい。

 筆者が専攻した農村社会開発学は、主に教育学・社会学の視点から農村の草の根レベルでの開発について考えるもので、地域住民を主体にした開発を外部の人間がどのように支援できるかが主な研究テーマだ。


2.開発と参加

 開発協力業界で今一番ポピュラーな言葉は何かと聞かれれば、それは「参加」ではないだろうか。実際、国連からNGOに至るまで、およそ開発協力にかかわる団体で、今「参加型開発」の推進を謳っていない団体は皆無といっても良いほどだ。なぜ今「参加」なのか。またそれは開発の現場ではどのような活動となって現れるのだろうか。そして、それらはいつも同じなのだろうか。

 開発協力の世界で参加の重要性が認識され出したのは1970年代頃からだが、それには次のような理由がある。先進国からの援助が本格化した1960年代以降、発展途上国では様々な開発プロジェクトが実施された。だが、それらはどれも、援助が行われている間はそれなりに成果を上げるのだが、ひとたびプロジェクトが終了し外国からの援助が途絶えると、元の木阿弥になってしまうケースがほとんどだった。給水ポンプ井戸を設置したのはいいが、プロジェクトが終わったとたんにポンプが故障し、そのまま修理されることもなく放置され、住民が再び川や池の水を飲むようになってしまった「飲料水供給プロジェクト」などがわかりやすい例だろう。そこで、「援助が終了した後もプロジェクトの制かを維持していくためには、地域住民にもプロジェクトに参加してもらい、その過程で開発の必要性(例:なぜ安全な水を飲まなければならないのか)について住民を啓蒙し、援助終了時にプロジェクトを住民に引き継げばいい」という発想が出てきたわけだ。

 なるほどもっともな主張だが、果たしてそううまく行くのだろうか。

 私自身の体験を話そう。私は1986年から1988年までエチオピアで日赤の駐在員として総合農村開発プロジェクトの仕事に携わった。この頃までには開発協力の現場レベルでも参加の重要性について認識が広まってきていたので、このプロジェクトでは2つの方法で住民の参加を促す計画を立てていた。1つは「フード・フォー・ワーク(food for work)」と呼ばれ、プロジェクトの労働作業(例:給水ポンプの設置工事など)に住民に参加してもらい、その対価として食料を支給するものだ。自分たちも作業に加われば、技術者だけが工事を担当する場合と違ってそれなりにプロジェクトへの愛着も湧くだろうし、プロジェクトの意味もある程度理解してもらえるだろうという期待がそこにはある。もう1つは、「トレーニング」で住民の中からボランティアを選んで講習(例:水と病気のと関連について)を行い、他の住民への知識の普及にあたらせようというものだ。だが、ちょっと考えればわかるとおり、これらはいずれもプロジェクトを実施する側のニーズ(=援助期間終了後のプロジェクトの維持)の達成に住民を協力させようという、言わばトップダウン型の「参加」でしかない。実際、食料の配給が終わってしまえば、住民はもはや工事には参加しないし、トレーニングで教える知識もその必要性についてそもそも住民側のコンセンサス(合意)ができていないのでなかなか広まらない。「これではダメだ。もっとボトムアップ型の参加を目指さなければ、プロジェクトは住民に定着しない」と考えた私は、住民の意見をプロジェクトに反映させるための組織作りに乗り出した。プロジェクト予定地になっている場所の住民に集まってもらい、エチオピア人スタッフからプロジェクトについての説明を行い、自分たちのニーズをプロジェクトに伝えるための委員会を作ろうと呼びかけた。ところが、この後、住民委員会は報告書の紙の上では次々と結成されたのだが、住民が実際に集まって自分たちのニーズについて話し合うことはほとんどなかった。私はただ途方にくれるだけだった。結局、私がエチオピアに滞在していた間は、他にどのような方法があるのかわからず、私はそのまま任期終了を迎え、エチオピアを発つほかなかった。読者の皆さんは私がどうするべきだったと思われるだろうか。

 さて、煮え切らない思いを抱いて帰国した私は、「開発と参加」の問題についてもっと良く知りたいと考え、2年後、マンチェスター大学の農村開発学のコースに参加した。そのコースで私は、地域住民の組織作りには次のような方法が有効であることを知った。先程の「飲料水供給プロジェクト」の例を使って説明しよう。

 プロジェクトを始めるのに先だって、外部の人間(援助を提供しようとする側)はまず村に出かけていって、村人がなるべくリラックスできる環境で、彼らの水や衛生に関する問題意識を聞き出す。この段階では情報を集めることに徹し、村人の衛生知識に明らかに誤りがあると思われる場合でも、反論したり、直すことはしない。話を聞く相手は村長など村の顔役や男性ばかりでなく、女性や若者、身分の低い人、貧しい人など普段あまり意見を聞かれることのないグループにも個別にインタビューをする。それから、外部の人間は一旦事務所に戻り、ある架空の村についての物語を作る。その中には村人から聞いた話を元に、水や保険衛生問題についての話題を挿入しておく。物語ができたら、再び村を訪れ、村人に集まってもらい、この物語を話して聞かせたあと、次のような一連の質問をしながら村人たちと話し合いを進めるのだ。

(1) この物語で話されたことは、皆さんの村でも起こり得ると思いますか。
(2) この村での問題は何ですか。
(3) なぜそのような問題があると思いますか。
(4) その問題はどうしたら解決できると思いますか。
(5) その問題を解決するため、皆さん方は力を合わせてどんなことができると思いますか。

 このような方法を用いることによって、村人は自分たちの村にある同様な問題について、どのように皆で協力して解決のための共同行動をとれるかを、ごく自然に話し合えるようになるのである。たとえば、「ふだん使っている泉に時々家畜が入って水を汚すことがあるので、皆で協力して泉の周囲に柵を作り、家畜の水飲み場は別に作ろう」という具合に。

 あらかじめ相手が良く知っている問題を物語り、絵、演劇などを用いて提示し、それについて一連の質問を投げかけるというこの方法は、実はブラジルの教育学者パウロ・フレイレが提唱したものだ。フレイレは成人識字教育の長年の経験から、読み書きができない大人に文字を教える場合、ただ機械的にアルファベットを教えるのではなく、あらかじめ彼らが普段の生活で強い問題意識を持っている事柄を調べ、それを象徴する単語を材料に話し合いをしながら授業を進めると、非常に効果があることを発見した。彼はこの経験を元に、教育には、教師が生徒に問題を投げかけ生徒と対話しながら進める「問題提起型」と、教師が生徒に一方的に知識を詰め込もうとする「銀行型」とがあり、生徒の自発性や主体性を引き出す教育は「問題提起型」でなければならないと主張した。

 共に「参加型開発」をめざしていながらも、私のエチオピアでのやり方とフレイレの提唱した方法とは、大きな違いがあることに気がつく。まず住民との最初の接し方が違う。私は集まった村人に、あらかじめ外部の人間によって準備された(つまり、それまで全く村人にかかわっていない)プロジェクトについて説明し、住民委員会の結成について説明しようとした。そこでは「話す」のは専ら外部の人間で、住民は聞き役であった。これに対してフレイレのやり方では、外部の人間はまず住民の意見や考えを「聞く」ことに徹している。その後も、いきなり住民に正しい(?)衛生知識を教えようとするのではなく、彼らが日常生活で既に気づいている事柄を出発点として話し合いを進めている。こうした差異は、元々住民が持っている知識を外部の人間がどのように評価するかによって生じているのではないか。前者では「住民は知らない」という前提があり、そのため外部の人間は住民に教えるための行動をとろうとする。これに対し、後者は「住民は知っている」と想定しているから、外部の人間はまず住民から学ぼうとしている。

 こう書いたからと言って、私は何も「第三世界の民衆は全てを知っているから、先進国の人間は余計な口出しをせず、彼らに任せておけばよい」などと言っているのではない。住民の知識の中にはもちろん誤りもあるし、だからこそ現実に第三世界には様々な問題が存在する。それでも彼らは自分で考え、自分で決心したことをやってみて、「失敗する権利」があるはずだ。だが、これまでの通常の開発プロジェクトでは、外部の人間が成功を求めるのが性急過ぎるがゆえに、住民に失敗させるだけの余裕がない場合が多かった。

 「開発」と訳されることの多い「Development」という言葉を、「失敗と反省の繰り返しによる発展へのプロセス」ととらえるなら、「参加型開発」は、このプロセスを住民に保証するものでなければならないだろう。そのためには、エチオピアでの私のように参加の大切さをただ頭で理解しているだけではダメで、住民に接するときのひとつひとつの「態度」が実際に変わらなければならない。そしてそれには上に挙げたような具体的な方法論の裏づけが必要なのだ。

 そこで次回は「開発における情報収集と分析」と題して、外部の人間が住民の知識から学ぼうとする時、実際にどのような方法があり得るのかを皆さんと一緒に考えていきたいと思う。

*「開発と参加」についてもっと詳しく知りたい方には、次の本を読まれることをお勧めする。
『国際開発論』入門-住民参加による開発の理論と実践』、P.オークレー編著、勝間靖、斉藤千佳訳、築地書館刊

*またパウロ・フレイレの「問題提起型教育」について詳しく知りたい方には次の本を紹介しておく。
『被抑圧者の教育学(A.A.LA、教育・文化叢書1V)』、P.フレイレ著、小沢有作・楠原彰ほか訳、亜紀書房刊


3.開発における情報収集と分析

 開発プロジェクトを始めようとする時、前もってその場所やそこに住んでいる人々についての情報を集めることが大切であることは、たとえ漠然とではあれ、誰にでも容易に想像がつくに違いない。しかしなぜ大切なのかと改まって聞かれたら、皆さんはきちんと答えられるだろうか。

 プロジェクト実施前の情報収集には、大きく分けて二つの意味がある。

 一つは開発プロジェクトの内容を考えるために必要な情報を集めることだ。その地域にどのような問題があるか。それを解決するための手段はどのようなものが考えられるか。それを実施するための資金や資材はどうやって調達するか。その解決策の実施はいつ、どこで、誰が主体となって行われるべきか。その効果はもっとも貧しい人々にももたらせるか。これらについて考えるためには、その地域の人口や民族、自然環境、政治、食糧、保健衛生、教育、土地所有、集落および家庭内での労働分担、所得の分配などについて知っておくことが必要だ。

 もう一つは開発プロジェクトの評価の基準となる情報(ベースラインデータ)を集めることだ。開発プロジェクトが期待通りの効果をあげているかどうかを判断するためには、改善しようとしている項目(例:食糧生産、収入、健康状態、教育など)に関連のあるデータの変化をプロジェクトの経過をおって比較するのが、最もわかりやすい方法だが、そのためにはこれら項目についてプロジェクト実施前に比較の基準となるデータを集めておく必要がある。

 ではこれらの情報をどうやって集めるかだが、実はこれが意外と難しい。前回に続いて、私が日赤の駐在員としてエチオピアで働いた時(1986~1988)の体験を話そう。

 私がエチオピアで関わったプロジェクトは、植林、土壌保全、農業、保健衛生など11部門からなる総合農村開発プロジェクトで、当時として「最も科学的なアプローチ」を採っているというのがセールスポイントだった。何がどう科学的なのか?

 その一つは、プロジェクト開始に先だって、対象地域のランドサット(人工衛生)写真と航空写真を撮影し、土地の傾斜度と現在の使用状況を分析して、プロジェクト地域全体の土地利用計画を作ったことであった。と言うと何やら難しそうだが、要は「丘の上の方にある傾斜が急な場所で耕作をすると、雨が降った時に土が流されて土地が痩せてしまうので、そのような場所は耕作をやめて植林を進める。逆に丘のふもとの方にある傾斜がゆるい場所では段々畑作りを進めて土が流されないようにすれば耕作をしても良い」というものである。

 もう一つは、やはりプロジェクト開始前に、地域住民を対象に約100項目からなる聞き取り調査を行い、それをコンピュータで分析して一冊の社会調査報告書としてまとめたことである。質問項目は民族、家族構成、環境保全、農業、保健など多岐にわたっており、農村開発のほとんど全ての分野をカバーするものであった。

 ところがこの「科学的アプローチ」による情報収集も、実際にプロジェクトを始めてみるといろいろと不十分な点があることがわかった。例えば、土地利用計画であるが、自然条件から言えば確かに上に述べたような考え方で植林地と耕作地を分けられればベストなのであろうが、現実には既にそこに人が住み、生計を立てるためにその土地を利用しているのだから、耕作をやめて植林しろと言ってもそう簡単にはいかない。また、仮にこうした土地の利用区分について住民側と合意ができたとしても、どこに、どのような種類の木を植えれば住民にとって最も利益があるのかと行ったことはわからない。つまり、人工衛生や航空写真では自然環境のことはわかっても、そこに住む人間のことはわからないのだ。

 聞き取り調査を行った目的はまさにこの点を補うためだったのだが、これにもいろいろな問題があった。この聞き取り調査では、調査をする側があらかじめ質問シートを作成し、住民に回答を選択肢から選ばせる方法を取ったのだが、この方法だと調査者がリストアップした質問項目以外のことは話題にならないし、回答もあらかじめ調査者が想定した以外のものが入る余地が無い。つまり、あらかじめ調査者が思いつかなかった事柄については、たとえ住民の側がそれについて非常に強い問題意識や深い知識を持っていたとしても、調査結果にはまったく反映されないのだ。その上、このエチオピアでのプロジェクトのように活動分野が11部門もあると、一つの部門から質問シートに盛り込める質問の数は少なくなるから、結局はどの部門についても詳しいことは良くわからないということになってしまう。

 現地の住民のことについて詳しく調べるには、文化人類学的な住み込み調査をやれば良さそうなものだが、残念ながらこの方法はあまりにも時間がかかり過ぎて(通常、調査開始から結果報告がまとまるまで1年以上かかる)、寄付者や助成団体に年単位で計画書や報告書の提出が求められる今の開発協力の実情では、事前調査だけにそれだけの時間を費やすのは現実的ではない。

 というわけで、私自身「短期間に有意な情報を確実に集める、そんな夢のような方法などないのだろう」と半ばあきらめかけていたのであるが、私のエチオピアでの任期も残すところ後数ヶ月にせまった頃、エチオピア赤十字がイギリスのサセックス大学からロバート・チャンバースという開発学者を呼んで、Rapid Rural Appraisal (「迅速農村評価法」とでも訳したらよいのだろうか)という情報収集法の研究会を開催した。後にイギリスに留学した時、私はこのチャンバースが参加型開発の研究では非常に高名な学者であることを知ったのだが、当時の私はそんなことは全く知らなかった。それで、最初は「ちょっとやってきたイギリス人に何がわかるものか」とかなり懐疑的な態度でいたのだが、研修会に参加しているうちに「これはちょっと今までのやり方とは違うぞ」と感じ始めた。何が違ったのか。

 チャンバースは、まず研修会の冒頭でこれまでの情報収集のやり方にどのような問題点があるかについて話した。それは以前から私がモヤモヤと感じていた疑問点をはっきりとさせてくれるものだった。実は上に述べたエチオピアのプロジェクトの問題点も、彼の説明を聞いて初めて頭の中で整理できたのだった。「このオッサン、なかなかわかっとるナ」

 続いてチャンバースは必要な情報を効率的に集めるためには、「何を知る必要がないかを知り、不必要な情報を集めるために無駄な時間を費やさないこと」と「集めようとする情報の種類や内容に応じて、それに適した情報源にあたること」が大切だと説明した。そして「特に地域住民は従来考えられている以上に有意な情報を持っているが、それをうまく引出すための工夫が必要だ」と語った。これらの説明をしたあと、チャンバースは研修会の参加者とともに実際の農村を訪れて、現地住民の知識をうまく引出すための様々な手法を実際に使って見せた。その中の一つは次のようなものだった。

 農民に対して調査者は、まず「あなたが知っている木の名前をできるだけたくさん教えて下さい」と尋ねる。そして農民が木の名前を一つ言うたびに、調査者はそばにある物にそれを置き換えていく。例えばユーカリは石、アカシアは藁という具合に。この時点で私は農民が次々と10種類近くの木の名前を挙げたことに驚いてしまった。多分途中で止めなければもっと多くの木の名前をあげたことだろう。

 続いて、木の名前に置き換えたものを二つずつ組合わせて「ユーカリ(石)とアカシア(藁)ではどちらが好きですか」という具合に質問する。勝ち残った方をさらに別のものと組合わせて同じ質問を繰り返す。これを何回かやっていくと、やがて名前が挙がったすべての木が優先順に一列に並ぶ。

 さらに今度は「アカシアよりもユーカリが好きなのはなぜですか」という具合に順位の理由について質問する。すると驚くなかれ、農民は木の一つ一つについて細かくその用途を説明して、なぜ一方の木が他方の木よりも良いのかを整然と説明するのだ。「ユーカリは建材としても薪としても使えるが、アカシアは薪としてしか使えない」などというのは序の口で、「果物が取れる」「木の実が食糧になる」「杖に使える」「家の窓枠に使える」…。「枝が爪楊枝に最適」なんていうものまである。

 私は興奮した。私はエチオピアに赴任して以来この時までに、エチオピア人や欧米人の植林専門家に何度も質問をしてきたが、これほど多くの種類の木についてこんなにも多様な用途があることを説明してくれた人は一人もいなかった。しかもさらに重要なことは、農民が高い順位に上げた木とプロジェクトが植林している木とが必ずしも一致していなかったという事実である。これでは現地の農民がプロジェクトの植林に積極的に参加しなくても無理ないではないか。「最初にこうした調査をやっていれば!」

 Rapid Rural Appraisal は上にあげた以外にも様々な手法を組み合わせて、地域の土壌や植生の特徴、耕作・労働・病気についての年間パターン、収入源の過去と現在での変化、村の政治グループの相関関係などを調べるものだ。そのすべてをここで紹介することはできないが、どの手法にも共通しているのは、調べようとする点についていくつかの質問を効果的に組合わせることで、住民の知識を最大限に引き出そうとしていることだ。上の例でも、いきなり「普段使っている木の優先順位とその理由を説明しなさい」と質問したら、答は返ってこなかっただろう。そして「やはり教育のない貧しい農民に何を訊いても無駄だ」と勝手に思いこんでしまったかも知れない。

 もちろん Rapid Rural Appraisal とて万能の手法ではなく、限界もある。その一つは集められる情報に数量的なものが少ないため、それだけではベースラインデータには不十分なことだ。とは言え、こうした手法を使用することは、「地域住民の知識」というこれまで軽視されがちだった情報源を再評価することに繋がる。そしてそれは調査者と地域住民との関係をも変え、ひいてはプロジェクト全体をより住民主体で、住民のニーズに合致したものへと変えていく可能性を秘めている。

 そこで次回「開発と技術革新」では、このようにして引き出された地域住民の知識が、実際に開発プロジェクトを進める場合に、どのように役立つのかを皆さんと一緒に考えていきたいと思う。


4.開発と技術革新

 前回は、開発協力の現場で外部の人間が地域住民の知識から学ぶためにどのような方法があるかをご紹介したが、この記事を読んだ方からご質問をいただいた。「確かに発展途上国の住民から学ぶことは大切だと思うけれども、彼らの知識にだって誤りや弱点はあるだろうし、外部の人間の知識の方が優れていることだってあるのではないか」

 確かにその通りである。では、外部の人間の知識と地域住民の知識とでは、互いにどの点が他方より優れていて、またどうすれば互いの弱点を補い合えるのだろうか。

 前回ご紹介した Rapid Rural Appraisal では、農村開発プロジェクトが発展途上国の住民に本当に望ましい効果をもたらしているかどうかを考える場合、次の4つの観点からチェックすることを勧めている。

(1) 生産性(単位面積や投入労働力あたりの生産が上がっているか)
(2) 公平性(プロジェクトの項かは地域の貧富の差を縮小する方向に働いているか)
(3) 安定性(天候不順などマイナス条件下でも安定した生産が確保できるか)
(4) 持続性(長期的に見て地域の自立を促すか、また地域の環境を維持できるか)

 そこで今回はこれら4つの指標を使い、外部主導で進められた農村開発の具体的辞令として「緑の革命」(*)を取り上げ、これを発展途上国の農民による伝統的農業と比較してみたい。

 緑の革命については現在でも賛否両論があるが、どちらの立場を取るにせよこの技術が食糧の増産をもたらしたという事実だけは認めなければならないようだ。最も目覚しい成果をあげたのがインドである。インドでは1970年代中頃までは国内の食糧生産よりも食糧消費の方が多く、不足分を毎年輸入しなければならなかったが、高生産品種の導入後、食糧輸出国に転じ1985年には同国の食糧備蓄量は年間生産量の20%である3,000万トンにも達している。

 しかし生産性については大きな成果をあげた緑の革命も、公平性の観点から見るといろいろと問題がある。緑の革命は種だけでなく化学肥料や殺虫剤とセットになっており、どれか一つでも欠けると十分な効果が出ないが、貧しい農民にはそのすべてを買い揃えるだけの貯金や融資のあてが無い場合が多い。さらに、高生産品種の栽培には農地の灌漑が必要とされる場合が多いから、川や湖などの水資源が不均等に存在するところにこの技術が導入されると、地域間での貧富の差がますます拡大してしまう。もともと土地や灌漑設備の配分が不平等であったインドでは、ほかならぬ緑の革命の「成功」が原因で地域間に大幅な経済格差が生じ、ついには貧しいアッサム州と豊かなパンジャブ州がそれぞれインドからの分離独立を主張する事態にまで発展してしまった。

 安定性の点ではどうだろうか。緑の革命では、化学肥料を効率良く使用するために一定の広さの農地に同じ作物を植えることが必要になるが、この方法だと天候が不順だったり予期せぬ害虫や病気が発生すると直ちに大凶作に繋がる恐れがある。これとは対照的に、発展途上国で伝統的に行われている農業では、同じ農地にいくつかの異なる品種や種類の作物を同じに栽培することが多く、農地の一部に旱魃に強い品種や洪水に強い品種を植えておくことで全滅からは免れることができる。また予期せぬ害虫や病気が発生した場合でも、隣同士に別の品種が植えられていれば農地全体に広がることは無い。

 公平性や安定性での問題点もさることながら、緑の革命が批判される最大の転はその持続性の無さではないだろうか。緑の革命は、「種籾を生まない種(高生産品種の種は交配種であるため、収穫された種をそのまま翌年に種籾として使うことができない)」、「自然な地味を失わせる化学肥料」、「抵抗力の強い害虫を生み出す殺虫剤」の3つからできている。このため農民は、同じ量の収穫を確保するために、毎年新しい種を買い、使用する化学肥料と殺虫剤の量を年々ふやしていかなければならない。このことは長期的に見て3つの問題がある。1つ目は農民の収益の低下だ。このやり方を続けていると次第に投入する化学肥料や殺虫剤の量の伸びが収穫の伸びを上回るようになり、農民自身の収益が減っていってしまうのだ。2つ目は海外依存度の高さだ。これらの化学肥料や殺虫剤は先進国から輸入しなければならないため、国際価格の変動の影響を受けやすい。実際これらの化学製品は石油を主な原料としているため、1970年代の2回の石油危機では価格が大幅に跳ね上がった。3つ目は環境破壊である。増大する化学肥料と殺虫剤の使用は、農地の地味を失わせ土地生産性を大幅に低下させるだけでなく、河川や地下水などの水資源をも汚染する。

 このように緑の革命は確かに生産性の点では大きな成果を上げたが、公平性、安定性、持続性については様々な問題や課題を抱えているのである。

*緑の革命(Green Revolution)
 緑の革命とは、例えば小麦や米などで異なる特徴を持つ在来品種を掛け合わせて人工的に新しい「高生産性品種」を開発し、化学肥料や殺虫剤と組み合わせて従来の何倍もの収穫を上げようというものである。1940年から1950年にかけてメキシコをはじめとする南米の農業研究機関で開発され、茎が短く、化学肥料への反応に優れ、収穫までの期間が短いのが特徴である。1956年に初めてインド、パキスタン、バングラデシュに導入され、1960年代半ばまでに単位面積あたりの生産量を在来品種の2~3倍に上げることに成功した。

 この技術が発展途上国に本格的に導入された1950年代後半から1960年代にかけては、キューバ危機(1960年)に見られるように冷戦がピークに達した頃で、東西の両勢力が発展途上国を互いに自分たちの陣営に引き込もうと争っていた。「共産主義化(赤の革命)こそ貧困問題を解決する」と主張する東側に対抗し、西側の援助機関が高生産品種を導入したことから、「緑の革命」と呼ばれるようになった。

 緑の革命に代表される近代的農業と比較すると、発展途上国の伝統的農業は全く異なる価値観で営まれているようだ。近代的農業では、ある年に特定の農産物が単位面横や投入労働豊あなりどれだけの生産があったかで秤価をする。これに対して混作や輪作を中心とする伝統的巖業では生産量を最大にすることよりも、凶作の危険を最小にすることを鮒優先しているようだ。そして今年いくら採れるかだけでなく、将来にわたって安定した収穫カが見込めるかどうかがポイントになっている。生産性も考慮するが、安定性や持続性により高い価値を置いていると言い換えてもよいだろう。そしてより高い安定性や持続性を確保するための方法(例:いつ、どこに、どんな作物を、どんなパターンで組含わせて栽培するか)は、それぞれの地域の環境や自然条件によって大きく<変ってくる。そしてそのような条件を熱知している者は現地の農民を置いて他にはいない。

 もちろんだからと言って現地の農民の知識が全ての点で優れているわけではない。様々な実験を通じて新しい品種や技術を開発する能力において農学者は現地の農民を遥かに凌いでいる。しかし、ある地域で長期にわたって観察しなけれぱわからないことや、五感で直接感じ取れることについては、外部から来た農学者が独自に調査するよりも現地の農民から学ぶことで逢かに詳しい知識を得られることが多い。例えば農地の勾配、土壊、植生、水はけのパターン、年間を通じての微妙な気候の変化などである。

 農学者が、例えば前回説明したRapid Rural Appraisalのような手法を用いて、農民がどのような条件の土地にどんな種類の作物を植えるかについてその判断の理由を学べぱ、安定性や持続性を損なわずに生産性をも上げる技術を開発できるかもしれない。そしてそのような試みは既に世界各地で始まっている。

 さて、発展途上国の農民の知識には、禄の革命が従来弱点としていた安定性や持続性を大きく改善する可能性があることを説明したが、単に現地住民の知識を取り入れただけでは改善できない点が一つ残っている。それは公平性である。現地住民の知識といえども、全ての農民が貧富の差に関係なく同じ知識を持っているわけではない。(例えぱ土地を持つ農民と土地なし農民とでは当然農業に関する知識や経験に差が出てくる)。また、より力のある農民がその知識の結果得られる利益を独占しようとすることはよくあることである。知識の種類が地域に土着のものであれ、外部から来るものであれ、それが貧富の差を縮小するように活用されるためには、農地改革や貧困層への低利子ローン提供など制度的な改革が必要になる。間題はどのような条作の下でそのような改革が可能になるかということだ。政治力や経済カに大きな格差がある社会では、力を持つているグループにとって不利になる改革を実施することほ難しい。

 外部主導の技術革新を支持する人々は言う。「政治カや経済力に格差がある社会にも新しい技術は積極的に導入されるべきだ。なぜなら新い技術が新しい利益を生み出す可能性そのものが制度改革への大きな圧カになるからだ。例えぱ新しい農業技術の導入が、農地改革やローン制度の改革を伴ってはじめて大幅な生産アップに繋がる時、これら改革を行なう利点が明らかになり、改革を実施する動機も強まる。同様に農地改革やローン制度の改革を行なう利点が新しい技術の導入によつて強められない限り、こうした改革が実現することは難しい」

 地域住民の知識の活用を支持する人々は言う。「現地農民の技術は安定性や持続性に優れているが、農民が環境への長期的配慮よりも短期的な現金収入を優先しなければならなくなったり、人口や家畜の増加によって従来の方法では生産が追い付かなくなった時に、土着の技術は衰退に向かう。このような場合は、農民が土着の技術への自信を取り戻し、個人で解決できない問題を一致協カして解決するよう、外部から支接が必要である」

 私には、「格差がある社会でも新しい技術を導入すれぱ、社会全体への利益の確保のために制度改革が進む」という前者の主張は、いささか楽観的過ぎるのではないかと思われる。むしろ力を持つグループが、新しい技術のもたらす利益を独占して貧富の差がますます拡大するのではないかと思う。私としては「現地の住民と外部の援助団体が協カして、地域住民の知識が応用されるシステムを作る」という後者の考えに惹かれる。しかし、そのためには住民が組織としての問題解決能力を増すための仕組み(例えぱショミティのようなもの)や、外部との様々な利害の調整を行なうNGOの存在などが必要になると思われる。外部の人間と現地の住民が協カしてこのような課題に取り組んでいくことで、最も貧しい人間の生活が向上し、その結果として貧冨の差が縮まるような関発が可能になるのではないだろうか。

 皆さんはどのようにお考えだろうか。

主な参考文献

Biggs, S.D.
A Multiple Source of Innovation Model of Agricultural Research and Technology Promotion (in World Development, Vol 18, 1990)

Farrington, J. & Martin, A.
Farmer Participation in Agricultural Research: A Review of Concepts and Practices, 1988

Hayami, Y. & Ruttan, V.M.
Agricultural Development: AN International Perspective, 1985


5.開発と環境

 開発と環境の閲係については、既に1970年代から一部の閲発学者の間で研究が始められてはいたが、今日のように広い注目と関心を集めるようになったのは、1980年代も後半に入ってからのことだ。そして今日に至るまで開発と環境とは互いに敵対するものとしてとらえられることが多い。これは「閲発は、野性→狩猟生活→遊牧生活→移動型農業→定住型農業→商業型農業→工業化、という段階(Stages of Development)に従って進む」という考え方に大きな影響を受けている。こうした前提に立てぱ、「開発とは、常により多くの資源を利用し、より多くの物を生産し、清費する社会をめざす」ことになり、従って「開発は、自然を破壊し、資源を枯渇させ、ひいては人類および全ての生命を滅亡させる危険があるから、開発を目的とした環境の利用にはなんらかの制限が加えられなければならない」ということになる。

 この開発と環境の間題は、特に砂漠化や地球の温暖化、オゾン層の破壊など地球規模の環境問題が登場するに至って、環境をめぐる南北の対立という新たな間題をも生み出した。つまり、北側の先進国が「これらの環境間題を解決するためには、豊かな自然が残っている発展途上国での環境利用(例:森林伐採など)を制限する必要がある」と主張するのに対し、南側の発展途上国は「北側の主張は発展途上国の経済発展を妨害し、世界経済における先進国の優位を維持するための策略である。先進国こそまず自分たちの大量消費のライフスタイルを改めるべきだ」と反論した。こうした「環境を守りたい北」と「開発を進めたい南」との対立は1992年にブラジルで開かれた地球サミットでピークに達した。

 だが、果たして「開発」と「環境」はどうしても対立しなければならない概念なのだろうか。またよく「環境を守る」と言われるが、それは何を何から守ることを意味するのだろうか。この間題を考えるために、私が日本赤十字社の職員として1986年から1988年までエチオピアで関わった農村開発プロジェクトと、今年シャプラニールの新プロジェクト地調査の際、ネパールで訪間した NGOの農村開発プロジェクトとを比較してみたい。

 1984年から1985年にかけてアフリカを大規模な千ばつが襲った。当時マイケル・ジャクソンを始めとするアメリカのポップスシンガーたちがアフリカ飢餓救済のために"We are the world"というレコードを共同製作して大ヒットしたので、覚えている方も多いと思う。その中でもエチオピアの被害は最もひどく、16あった州のうち12州、総人ロ4,200万人のうち1,000万人が被災する文字どおりの大災害となった。この時のエチオピアの飢饉は、もちろん干ばつという自然現象が引き金となって起こったのは碓かだが、同時に人為的な要因も大きいとされた。人口や家畜が多くなり過ぎ、耕作や放牧には適さない傾斜の急な土地でも森林を伐採して開拓を進めたため、土が雨で流され、土地の生産力や保水力が落ちたととが千ぱつの被害を大きくしたと考えられた。こうした原因が解決されなければ、エチオピアは近い将来再ぴ飢饉に襲われることになる。そこで救援活動が終了した1986年から、環境保全による災害予防を目的とした総合農村開発プロジエクトが、エチオピア、スウェーデン、西ドイツ、日本の4カ国の赤十字社によって始められた。

 このプロジエクトで最も力を入れて進められたのが土壌保全活動だった。具体的には傾斜の比較的緩やかな農地では、土が流されないように、等高線に沿って石や土で士手を築き、段々畑を作る。一方傾斜の急な土地でば植林をしたり、あるいは人や家畜が入れないように囲いをして斜面を2~3年間閉鎖し、自然に地味や植生が回復するのを待つというものだ。

 だが、実際に始めてみると様々な間題が噴出した。まず段々畑だが、労賃として食糧を支給し、農民にも作業に参加してもらったにも拘らず、ようやく完成した土手が、ほかならぬ農民たち自身の手によって壊されてしまったのだ。農地に土手を作ると積み上げた石に占領された分だけ耕作画積が狭くなってしまう。それでも長期的にはこの方が土壌の流失を防ぎ、作物の生産も上がるはずなのだが、わずかな土地で、生存ぎりぎりの生活をしている農民には、いま土地を最大限使うことの方が大切で、数年後のために耕作面積を狭める余裕など無かったのだ。

 同様に「環境保全のための植林」も貧しい農民たちにとってはその長期的な意味は理解できても、日々生き伸びていくことに精一杯の彼らには優先度の高いニーズにはなり得ない。そのうえ、この連載の第3回目で紹介したように、プロジエクトで植えていた木は住民にとって余り利用価値の高い種類の木ではなかった。さらに、木を値えている場所は政府の土地や村の共有の土地であることが多く、木が成長した後、誰にその利用権があるのかも暖昧だった。こうした事情から、プロジェクトは農民主体による植林運動を根付かせることは出来なかった。

 斜面の閉鎖に至っては、確かに自然の植生はそれで回復するのだろうが、農民たちにとっては、今まで家畜を放牧したり、薪を取っていた土地に入れなくなるのだから、その分だけ確実に生活は苦しくなる。今にして思えば、千ばつ災害の予防に気を取られる余り、かえって農民を苦しめていたのではないかと反省される。

 このプロジェクトの事例から私たちが考えなければならないのは、「環境」という言葉の持つ意味である。私たちは環境を、森や川や海など「自然」という言葉で現されるものと同じ意昧でとらえがちだ。そして自然には、「人間とは対立するもの」とか「人間が手を触れる前のもの」という意味がある。このため「環境を守る」と言うと、私たちはつい「森や川や海を、それを利用しようとする人間の手から守ること」としてとらえてしまう。しかし、外からやってきた人間の目には全く人の手が触れられていないように見える自然も、実際にはすでにその土地の人々が様々な目的で長年にわたっで活用している場合がほとんどなのだ。従って、私たちは自然だけでなく、それを活用する人間をも含めたトータルな意味で環境をとらえ直さなければならない。その時「環境を守ること」は「自然とそれに依存している地域住民との相互関係を守ること」ヘとその意味を大きく変える。


6.わたしたちはなぜ開発協力に関わるのか?

 第1回の「開発って何だ」から始まって前画の「開発と環境」まで、発展途上国の貧しい人々が主体となって進める開発協力のあり方について皆さんと一緒に考えてきたが、この連載を締めくくるにあたり、「開発学」とは若干異なる視点から開発協力の問題を考えてみたい。というのも「開発学」はしょせんは学問であって、その研究が進んだからと言って、それだけで南北問題が解決されるわけではないからだ。

 その歴史を振返ってみると、開発学はたいていの場合、世界全体を対象とした非常にグローバルな開発理論の論争(例:近代化論、従属論、構造調整論など-本連載第1回参照)か、さもなければ特定の地域で過去どんな開発プロジェクトが行われ、その結果どんな社会変化が起きたかを克明に分析したケーススタディとして発展してきた。だが発展途上国の貧しい人々が将来どうやって自分たちの生活を向上させていったらよいのかという肝心な点に関しては、ほとんど有効な助言を与えることができなかった。

 開発学が無力なのは南の国の人々に対してだけではなかった。自身が発展途上国の住民でも開発専門家でもない北の国の人々は、開発学を学んで途上国に関する知識が増えたからといって、それだけで実際に開発協力に関わるようになるわけではない。かく言う私も、なぜNGOのスタッフをやっているのかと聞かれると、別に開発学を学んだことがその原動力になっているわけではないのだ。「開発について理解すること」が「開発協力に実際に関わること」へとつながるためには、学問としての開発学以外の何かが必要なのだ。

 「わたしたちはなぜ開発協力に関わるのか?」この問いに対する答えは人によって千差万別であって、こうでなければならないというものはない。従って私に出来るのは、自分のささやかな例を紹介することだけで、後は読者の皆さん一人一人に考えていただくほかない。

 私が1990年から1年間参加したマンチェスター大学の開発学のコースには、欧米の援助関係者だけでなく、発展途上国からの留学生も数多く参加していた。私には教授たちの講義もさることながら、彼ら留学生との会話から考えさせられることが実に多かった。

 当時まだ赤十字の職員だった私にとってショックだったのは、彼らが一様に先進国からの援助を非常に冷めた目で見ているということだった。彼らに言わせれば、先進国と途上国との間でこれほどまでに富のアンバランスが生じているのは、先進国が途上国の一部エリート層と手を結んで途上国の資源や生産物を不当にコントロールしているためであって、そのシステム自体に手を付けることなく差し出される「援助」は人々の目を南北問題の本質からそらさせるための手段に過ぎないのであった。

 すべてが先進国のせいかどうかはともかくとしても、発展途上国の貧困の原因を調べていくと、確かにそれが途上国の小さな村から国際レベルに至るまでの複雑にして精緻なシステムによるものであることを認めないわけにはいかなくなる。こうした現実を目の前に突き付けられて、祖国の、そして自分自身の将来に絶望してしまう途上国の若者は数知れない。ガーナからの留学生トニーがぽつりと言った「僕の最大の悩みは、どうしたら仲間たちが祖国を捨てて亡命すること以外のことを考えてくれるようになるかということなんだ」トニーの言葉を聞いて、私は留学前にエチオピアで赤十字の駐在員をしていた頃出会ったイヨッブという青年のことを思い出していた。

 イヨッブは当時30才くらいで、私がエチオピアに赴任する以前に、医師として赤十字の干ばつ救援活動に参加したことがあった。彼はその時一緒に働いていた日赤の看護婦さんと結婚し、私とはその奥さんの紹介で出会ったのだが、とても誠実でやさしい青年だった。イヨッブは誠実なだけでなく、極めて優秀な人でもあった。後に私が参加していた農村開発プロジェクトのメンパーの一人にもなったのだが、現場レベルのスタッフの指導の仕方、会議の進め方、報告書の書き方などどれをとっても私よりはるかに優れていた。そんな彼を見ながら私は「優秀な人材というのはどんな貧しい国にもいるのだな」と感心していたのだが、その一方でなぜか彼の表情がすっきりと晴れないことが気になっていた。それは彼に限らずエチオピアの人々にどこか共通した印象でもあった。

 ある日の夕方、私は宿泊先のホテルのラウンジでイヨッブと一緒にビールを飲んでいた。私は、駐在員の仕事が終わったらエチオピアでの経験をもとにイギリスで開発について勉強したいとか、それからもう一度別の発展途上国で開発協力の仕事に関わってみたいとか将来の抱負を語っていた。すると彼が突然目の前で泣き出したのだ。彼は言った。「日本人の君はいい。お金もあるし、どこにでも行け、何をやるのも自由だ。だがいまのエチオピアを見てくれ。貧しい生活のおかげで大学まで進めるめは100人に1人もいないし、卒業しても仕事につけるのはさらにごくわずか。これだけ苦労してやっと就職しても大半は官僚主義のはぴこった政府関係の仕事ばかりだ。こんな国さっさと見切りをつけて、外国にチャンスを求めたいが、エチオピア政府は決して我々を出国させてはくれない。こんな八方塞がりの状態で一体何を希望に生きてきゃいいんだ!」

 それまでに私はエチオピアの農民の費しい生活を何度も目の当たりにしてきたが、彼らの生い立ちや生活環境が自分とは余りにもかけ離れていたため、彼らの問題を自分自身に引き寄せて考えることは難しかった。しかしイヨッブは考え方や生活様式の点で同じエチオピア人の農民たちよりむしろ外国人である私たちの方に近かった。だからそんな彼でさえこれほどの心の暗黒を抱えていたことに私は強いショックを受けた。そして「もし自分が彼の立場だったら」と考えて心の底からゾッとした。私はこの時、はじめて南北問題が持つ理不尽さ、残酷さをほんの一瞬ではあっても自分の身に引き寄せて感じることが出来たのではないかと思う。

 発展途上国は確かに貧しい。だが途上国ことって最も深刻な問題は、食糧が足りないことでも、国民1,000人あたりの医師の数が少ないことでもなく、国民の大多数が自分たちの生活を自分たちの力で良くしていけるということを信じられずにいることではないだろうか。そんな途上国の人々がいくらかでも自信を取り戻せるような、いや、せめてそのための小さなきっかけとなるような、そんな開発協力こそがいま最も求められているのではないだろうか。

 日本人である私たちがなぜ開発協力に関わる必要があるかを論じる時、日本の戦争責任や企業進出、あるいは「じゃぱゆきさん」をはじめとする日本とのつながりがよく言及される。確かにそういう視点も大切だと思うのだが、私には何となくしっくりこない。これだと、逆に日本に直接責任がない問題については自分たちは関係がないということになってしまうからだ。自分たちとのつながりが見い出せないと、私たちは発展途上国の人々の貧しい境遇に同情はしても、それはどこか自分たちとは関係ない別世界の出来事として捉らえてしまう。そして心のどこかで、彼らが貧しいのは日本人である私たちほど一生懸命働かないせいではないかとか、彼らの側にも何か責任があるのではないかと考えてしまいがちだ。だが発展途上国には、それぞれ少しずつ理由は異なるものの、人々が貧しさからなかなか抜け出せない事情がある。誰も生まれてくる国を選ペない以上、私たちだってもし発展途上国に生まれていたら、自分で人生を切り開いていく可能性を見出すより前に、自分を取り巻く状況に打ちのめされてしまうかもしれないのだ。

 最後にアメリカのフォークシンガー、ジョーン・パエズが1960年代に歌った“THERE BUT FOR FORTUNE"という歌の歌詞を紹介したい。私はこの曲を数年前にラジオで偶然耳にしたのだが、余りに印象深かったので、この一曲だけのためにわざわざバエズの2枚組CDを買ってしまった。何度も繰り返し出てくる"There but for fortune go you or I"というフレーズがBut for fortune, you or I go there(運しだいでは、あなたか私がそこに行っていた)の倒置であることが分かれば、特に訳をつけなくてもだいたいの意味はお分かりいただけると思う。

 There but for future ・・・私たちはなぜ開発協力に関わるのだろうか。

Show me the prison, show me the jail
Show me the prisoner whose life has gone atale
And I'll show you a young man with so many reasons why
There but for fortune go you or I.

Show me the alley, show me the train
Show me the hobo who sleep out in the rain
And I'll show you a young man with so many reasons why
There but for fortune go you or I.

Show me the whisky stains on the floor
Show me the drunkard as he stumbles out the door
And I'll show you a young man with so many reasons why
There but for fortune go you or I.

Show me the country where the bombs had to fail
Show me the ruins of the buildings once so tall
And I'll show you a young man with so many reasons why
There but for fortune go you and I, you and I.



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