アフリカ難民キャンプ
魚谷 弥生
灼熱地獄。物憂い黒人の土地。アフリカに対するこうしたありがちなイメージを裏切らない場所が存在する。ケニヤ北西部はスーダン国境付近に位置する、カクマ難民キャンプである。私は昨夏2ヶ月間ケニヤに滞在し、その前半1ヶ月をカクマでのワークキャンプに費やした。ここではこの時の体験を元に、アフリカ難民キャンプの一つのあらましをご紹介するつもりである。
<地獄>
ナイロビから通算20時間。我々の乗った新品の四駆は、2日間のサファリ(スワヒリ語で旅の意)を終えてようやくカクマの町からキャンプにかかる橋を渡った。乾いた川の上に架かる橋。乾いた川底には、民族衣装を着てヤギを追う現地ケニヤ人の姿が見える。オレンジ色の夕陽が、車内にさし込んでくる。車のフロントガラスには、悪路を走る途中に跳ね返った砂利がガラスを直撃して出来た放射線状のひび割れがある。ドアを開けて車を降りると、ナイロビを出るときには真っ白でつるつるしていたボディーが、砂まみれ。(ちなみに、給油するたびに群がってきた人々が車にベタベタ張り付いたおかげで窓は手垢だらけ。)シートを振り返ってみると、長時間座り続けたためにへこみがなかなか直る様子がない。窓には、途中、道路の陥没をさけて路肩を走っていたとき、沿道に密生していたアカシアが隙間に刺さったと思われるとげもついている。悪路に縁がない首都圏暮らしをしてきた私にとって、この旅は過酷だった。しかし、その疲れを癒すまもなく、カクマの手厳しい歓迎が我々を出迎える。ハマダラ蚊のぬかりないシークレットサービスと、夜中になっても熱帯気分を盛り上げてくれる、30度を超す室温である。
ここに難民キャンプができたのは1992年。それまでは牧歌的な土地だったかというと、そうでもない。それまでは遊牧民族のトゥルカナ人がやはり、時に干ばつで飢え、ささやかな食料援助が行われていた。ここでアカシア以外の植物を目にすることはごくまれである。雨期が来ても雨はほとんど降らない。おまけに乾期となれば、半砂漠化した土が砂埃となって猛威を振るう。人は人種の別無く、カクマの自然条件の厳しさを嘆いている。「カクマは暑すぎるよ。陽射しも強いし、その陽をよけようと思ったって、木さえないんだからね。」自身を「ブラウン」の人種と呼ぶソマリア人・エチオピア人の難民は、いかに以前自分の肌の色が褐色だったかをよく私に説いていた。が、長年のカクマ生活でケニヤ人と区別が付かぬほど日に焼けた顔は、その面影を彷彿とさせる手がかりを少しも残してはいない。
出発前「君、色白だね。カクマは暑いけど大丈夫?」という以前のワークキャンプ参加者からの質問に「それくらい当然デショ!」と思った無知且つ無謀、無体力の私は、1ヶ月で3度再燃した悪性のマラリアに倒れ、感染症にかかって入院もし、帰国時成田に降り立ったときには「何あの黒くて顔色悪い子」と眉をひそめている中年夫婦に愛娘と気づかれぬほど、ぼろぼろになって帰るはめとなった。カクマは難民にとっても、訪問者にとっても、物理的に地獄である。そんな場所にこの難民キャンプはあった。
<難民の一日>
難民の一日はおよそ、かくの如く始まる。5時起床。陽の出るかでないかと言う頃、水浴びをしたり、朝食の支度をしたりする。隔週で行われる配給のある日は、6時には配給所へ向かう。配給所の数は3つ、難民数は9万人。家長だけが受け取りに行くとはいえ、難民の大半がファミリーサイズ1と呼ばれる、単身生活者である。当然、順番によっては長時間待つことも必至だ。また、食料の配給量はごくわずかなものであるし、衣類はサイズに関係なく配られるため、難民が生活する上で配給のみによって需要を賄うことは大変難しい。そのため、キャンプ内には商店街の如くキオスクがひしめき合い、靴や下着といった生活必需品から、レストラン、肉屋、はては電化製品を売る店や写真館、ビデオシアターまでもが軒を並べている状態だ。難民は、キャンプを運営している機関であるUNHCRやNGOで仕事をするとインセンティブといって給料代わりに少額の報奨金を得られる。従って、これを元手にしてビジネスを開始する人が多くいる。また恒常的に仕事がない者も、仲間の難民が経営する店ではツケにしておくことができ、金が懐に入ったときに支払う事ができるシステムもある。他に、資金がないが起業したい人向けに、マイクロクレジットを行っているNGOもある。カクマの難民には、商売をしたり、娯楽へ足を運んだり、訓練学校に通ったり、はてまた援助機関で仕事をしたりと様々なライフスタイルの余地がある。若者向けには犯罪・非行防止のためにと絵を描いたり弁論、演劇等に参加する事の出来る場、美術文化センターも設立されているし、種種のスポーツプログラムが毎日催されていて、積極的に行動すれば時間を無為に過ごさなくても済むような条件が整っているといえよう。
また、祖国では活発に戸外へ出ることの無かった女性を主な対象に、有志のためのジェンダーに関する講義や、家事の効率をあげる調理器具の導入、洋裁の講義なども行われている。子供たちはおもにキャンプ内の学校に通う。幼稚園からセカンダリーまでの学校が合わせて30校弱あり、3000人余が通っている。中には、子供だけではなく祖国で教育を終えられなかった人、受けられなかった人など成人も学んでいる。カリキュラムはケニヤの物を使用し、卒業資格も認められる。
難民の夜は一般的に言って早い。もちろん、飲み屋もあるが、日が沈んでからは強盗・殺人の類が横行するため、人々は日没後には家から出ない場合が多い。夕方5時以降になると、銃器を使った犯罪が時折発生し、スタッフが巻き込まれて死亡したケースもある。難民の中には、祖国を離れる際に軍の装備を持ち込む物も居て、銃や無線、衛星電話などを持つ人が存在する。(銃は100ドル前後で購入することが出来、ブローカーに話を付けるとカクマからさらに北へ向かった、人気のない場所で取引が行われるのだそうだ。)また銃ならずとも、刃物で強盗するケースも多く見られ、今でも残る生々しい腕の傷痕を見せてくれた難民もいた。このようなわけで、身の安全を確保するために日没後は戸外に出ないのは彼らの常識である。また、早めに就寝することで明かりを節約することも、燃料代の工面や乾燥地帯での薪あつめに難儀する彼らにとっては大切である。
<物憂さ>
難民生活はしかし、どんなにより文化的なプログラムが開始されようが、ただで食料や衣服が受け取れようが、一国の身分保障を持たずに国際機関が発行した難民カードをIDとする間は彼らの終の生活とはいえない。彼らは一時的に難民キャンプで保護を、支援を受けに来たかもしれないが、一生その暮らしを続けようとしているわけではない。またUNHCRの方も、カクマの難民には"Resettlement"といって、ケニヤを離れ、第三国に定住する事を斡旋している。一般的に言って、UNHCRのスタンスは難民を彼らの祖国に帰還させる事、すなわち"Repatriation"だ。が、東アフリカ諸国は、どんなに難民の帰還を促そうとも、帰国できる状態に無い実態の国ばかりである。中でも、精神的に障害を生じて祖国に帰ることに不安を覚える人もいる。こうした難民はリセトルメントの機会を手に入れやすい。
ところが、こうした人でなくとも、もしどこかからスポンサーを見つけたり、先に移住に成功した友人から送金を得たりして彼らが金を手に入れる事ができれば、リセトルメントに結びつくことが多い。つまり、精神状態に関わらず、金を以てしてリセトルメントの順番を自分の物にする事ができるようなのだ。往々にしてこうした金は、一部がUNHCRなどのオフィサーに心付けとして使われる。リセトルメント待ちの順番をあげてもらうためだ。残りの金は、まずは自分がカクマを離れ、ナイロビの学校に通う学資や生活費に使う。教育を受けていた途中で難民となった者が多い中、中学校卒業資格等リセトルメントに欠かせない条件をそろえていない人は多い。ナイロビに行けばカクマでの過酷な暮らしを逃れることができるし、生活の便利さ、情報量の多さが増す。
さて、難民生活を脱するための道のりはまだ長い。学校を無事終えると、希望移住先の国に提出するための書類をそろえねばならない。卒業証明書の他に、UNHCRから発行される推薦状のような物等、希望先の国によって要求される書類は山ほどある。取り寄せるのに時間がかかるのもさながら、いつまでたっても発行される気配のない書類に対しては、またもや発行者に心付けを払ったりと、根気と金の要る行程が続く。無事に書類が整い、UNHCRが航空券を手配して、対象となる難民をナイロビに送るとあとは飛行機が飛ぶのを待つばかり。ただ、ここまでに1年や2年かかるのはざらである。
故に、精神的に病んだ人や祖国に帰れない上にキャンプで危険な目に遭った人は当然リセトルメントを手にして去ってゆくが、多くの難民は、スポンサーの当てもなく、かといって祖国にも帰れる見込みはないし、カクマでじっと自分のために運が開けるまで祈り、地道な努力を続けている。カクマに難民キャンプができてからはや8年。設立当初収容された難民は、今頃どこかへ移住していてしかるべきなのに、今でもカクマに暮らす人は多い。たいていの人が、1度や2度は強盗に遭っている。その一方で、音楽やスポーツなど、他者に秀でた才能を持つ者はアメリカに好まれ、将来の賞金王の期待をかけられてケニヤを離れていく。難民となった根本原因や、現在難民で居る事で脅かされている安全保障などにはなかなか目が向けられないのが現状であるが、そのような判断基準だけではリセトルメントを世話できぬほど難民の数は多く、UNHCRの事務処理能力も追いつかないのである。
祖国には帰ることができないものの、リセトルメントと言う形でキャンプ生活に終止符を打った難民は、移住先で国から2年間の資金援助を受けることができる。適用範囲は学業、住宅等。しかし、これは2年がすぎると返済しなければならない。ただでさえ新しい土地にいるのに、黒人、移民ということで求職時に不利になりがちな彼らが定職を見つけ、生活を支える一方で借金を返済するというのはたやすいことではない。難民の物憂いは今日も続く。