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公正・持続可能な食糧生産を見据えていきたい

トン・カーオ

 私は現在大学の3年に在籍し、この秋からイギリスのSussex大学にて一年間、農業と政治に焦点をおいて開発学の勉強をする予定である。人間の生きる糧を生産する農業と社会を動かす政治が農村のコミュニティーの中でどう結びつくのかということをテーマに、学びを深めたい。将来は、アジアの地域において、「公正かつ持続的」な食糧生産をつかさどる領域、その実現を目指す関連領域で働いて生きたい。

 たいそうなことを書いているが、実際のところまだまだ先を模索している段階の私が自分自身について、この場において、なにがしかのことを書くということは非常にチャレンジングである。それでも自分自身が一体どうしてそうした目標を持つように至ったのか、一度考えてみたかった。つたない筆の運びに、歯がゆく思われることも多分にあろうかとは思うが、最後までおつき合いいただければ幸いである。

 そもそも私のこうした興味関心は、これまでに体験してきた様々な経験によって導かれてきたものである。

 「食糧」に目を向けた最初のきっかけは中学1年の冬休みの宿題に出された「コメの輸入自由化」に関するレポートであった。食糧自給率の問題、輸入米にかかわる農薬の問題、水田が環境に果たす役割、の三点を理由に、私はコメの輸入自由化に反対の立場をとった。当時1993-94年にかけて、タイから大量のコメが輸入され、しかし消費者に受け入れられずに処分されていった。日本でそのようにぞんざいにあつかわれていたコメがタイの国ではタイの人々の食糧であり、日本の緊急輸入の故にコメを生産しているタイの農民の生活が圧迫されているという事態に気づいたときに、私は驚きと怒りをおぼえた。食糧を提供された人はそれを無駄にし、一方で食糧をつくる人が飢えているという社会の不正義を含む構造に対してもやもやとした怒りの念を抱きと、それを改善しなければという義務感にかられたのがこのときであった。

 漠然とした問題意識をもっていた「食糧生産、農業」の現場に出会ったのが、そしてその後の私の道を開いたのが、中学2年の夏(高校1年の夏にも再訪)に三泊四日でおとずれた栃木県西那須野にあるアジア学院である。アジア学院とは、アジア・アフリカの国々の農村コミュニティーで働く人を一年間そこに招き、有機農業をベースとした共同生活を営みながら、農村指導者養成をめざす生きた学びの場である。三泊四日の間、実際に農作業のほんの一端を体験させてもらい、またアジア・アフリカからの研修生と共に過ごす時を得た。拙い英語で研修生の方に「Where are you from?」と話しかけたところ、「I'm from Uganda. What do you know about my country?」と答えが返ってきた。正直言ってそのとき初めてウガンダという国がアフリカに位置していることを私は知ったのであった。地図にのっているすべての国にはたくさんの「人」が暮らしているということを体感したのが、また英語を使えたらもっと「人」と話ができるのだと痛感したのが、このときであった。

 高校時代には家族と共にマレーシアに一年間移り住み、日本の外、「アジア」に暮らした。マレーシアは、マレー系、中国系、インド系マレーシア人が構成する多民族国家である。現地で通った学校は、インド系マレーシア人の校長先生(兼数学の先生)とその奥さん(兼Accounting の先生)が運営する小さな寺子屋のようなインターナショナルスクールであった。生徒は、インド、パキスタン、スリランカ、香港、台湾、韓国、日本、タイ、インドネシア、モルジブ、イラク、ヨルダン、スーダン、タンザニア、と文字通りインターナショナルであった。何より驚いたのが、学校の柔軟性である。日本で育ってきた私にとってみれば、最初のうちは、「こんなに全てが適当に決められていてこの学校は大丈夫なのか」と本気で心配した程である。入学、在籍する学年、履修科目、教員採用、遠足、など日本ならばきちっとした制度に則って決定されることが、そこでは校長先生の一存で、かつ決断に要する時間はそれぞれたいがい5分以内で次々決まっていった。次第に私もそれに慣れ、いちいち驚かなくなり、逆にそこに道理を見いだすようになった。その柔軟なシステムで学校は結局毎日巧くまわっている。郷にいれば郷に従え!であった。

 日本に帰国して、高校に復学し、あらためて自分の進路を考えたときに、大学では政治・経済・歴史など社会科学を学び、矛盾を感じる社会の問題解決に結びつく幅広い視野を獲得しようと目標を定めた。

 そうして足を踏み入れた大学では3学期制の為に、2.5ヶ月の長い夏休みと2週間ずつの秋休み、冬休み、それに1ヶ月の春休みが与えられた。大学の授業より大学の休みのことを先に書いてしまうのは、それだけ、休みの間に経験してきたことが私を形づくり、また教室における学びの源泉となったからである。

 大学1年の夏休みは、それを利用してアジア学院にworking visitorというかたちでより長い期間滞在させていただいた。毎朝・夕は鶏の世話、日中はクロレラ培養施設の建設作業に携わった。先にもかいたとおりアジア学院は有機農業を実践する。そこでは様々なものが循環する。例えば豚の糞尿は一所にためられて醗酵させそこからガスを発生させ学院の食堂に供給される。また醗酵後に液体として残った部分は肥料として畑に還元される。畑の野菜はつぎつぎに毎日の食卓にのぼる。なんともご飯がおいしい。食べものを育てた人、調理した人、食べる人皆が一同にかいして食事を頂く。自分たちの手で食糧を生産しそれを共同体で消費するということは、決してらくなことではないが、それ以上に、感謝の気持ちと喜びをもたらす原点である。

 具体的なアジアの村に出かける機会を与えられたのが1年と2年の春休みに参加した大学の宗務部が主催するタイ・ワークキャンプであった。タイのチェンマイにある Payap大学の学生と共に山岳民族の村に暮らしながら教会堂建設作業を行った。村人はキリスト教信仰のもとに一つの共同体を築いていた。村人・タイの学生と一体になってコンクリートのブロックを一つ一つ積み上げて一週間で教会堂を建てる。村のホストファミリーは私の大切な家族であり、共に過ごしたタイ・日本の学生は兄弟姉妹である。1年目の村、Pang-hok 村はラフ族の村で山の尾根にある人口70人のコミュニティーであった。村の周りは茶畑で我が家のホストマザーは毎日そのプランテーションである茶畑に働きにでかけていた。村にいたる道路はプランテーションを所有する会社の資金で舗装されたものだという。普段日本で何気なく飲んでいるお茶が、道中何気なく通過した道路が、彼女の働きに出かける姿に、「最近は仕事にいくと身体がだるく、頭がいたくなる」といっていた母さんに重なった。もしやプランテーションで使用する農薬のせいではと思うと、これまであちこちで学んだ農薬の害が、大規模単一栽培近代農業の影が、実態として迫ってきた。

 2年の夏には、大学のInternational Internshipという授業を履修し、マレーシアにあるManagement Institute For Social Change (MINSOC)というNGOにて1ヶ月インターンシップを行った。MINSOCはアジアにおいて、それまでの経済主導の開発に対して、人間中心の開発を推進するためのサポートを、コミュニティーやNGO、その他の機関に提供していく団体である。そこでは日常の雑務を手伝いながらSustainable Agricultureついての概念的なレポートを書くことを命じられた。中学生以来持ち続けていた食糧生産の体制における矛盾。食糧を生産する人が飢えているという状況。有機農業の可能性。その先にあるのがSustainable Agricultureである。

 増加する人口に対しての食糧増産を目指したひとつのアプローチが1960-70年代の緑の革命に代表されるようなIndustrialization of Agriculture=商工業的農業であった。農薬、化学肥料、灌漑設備をセットにした高収量品種は、確かに全体的な穀物の収量を飛躍的に増大させたが、収穫できるエネルギー以上の主に石油エネルギーの投資を要求するのがこのIndustrialized Agricultureの特徴である。同時に女性や、小規模農家を排除し、投入される化学物質は自然環境を汚染し続けている。その対案が Sustainable Agriculture=持続可能な農業なのである。ここでいう「持続」が意味するものはエコロジーにとどまらない。社会的公正、経済的存続、生態的再生、政治的参加、文化的活性、精神的充足感、(Socially Just, Economically Viable, Ecologically Regenerative, Politically Participatory, Culturally Vibrant, Spiritually Fulfilling)この6つの条件をみたすようなコミュニティーのもとに営まれている農業こそが持続可能な農業なのである。言葉を換えれば農村開発が目指すべきところは、以上の6つの要件なのだということである、と私は認識するようになった。

 1ヶ月にわたるレポート作成期間には、MINSOCのニューズレターを熟読し、文献にあたりといった机上の作業とともに、Sustainable Agricultureを実践しようとしている村や従来型のIndustrial Agricultureを行う農園、ゴムとパームオイルのプランテーションをこの目でみる機会があった。これに加えて、MISNOCの設立者であるMr. Bishan Singから学んだことが大きい。Development Practitionerとしてアジアの農村で活動しているMr.Bishanの家に半同居のような形で生活していたため、彼との日常における対話やディスカッションを通して、常にこのテーマを追及することになった。彼の家の庭はorganic gardenになっており、ときには庭仕事を手伝い庭に生えているサトウキビをかじった。また週末は郊外に準備中の有機農場で少しばかり働いたりもした。日々のオフィスでの考察とその外での実体験が、「持続的農業」に対して以上のようなコンセプトを持つに至らしめたわけである。

 この6つの側面のうち私が一番難しさを感じたのがPolitically Participatoryである。コミュニティーの成員の自発的な決定への参加、コミュニティーと政府の関係性、力関係、国の政策としての持続可能な農業のありかた、気がついてみると、大学の授業で最も熱をいれて取り組んだ政治の分野に関係する領域にあてはまるテーマがたくさんそこに存在していた。これらをより深めて勉強できる場所が最初にかいたとおりSussex大学であったために留学を決意することとなった次第である。

 一年間の留学後にどのような方向へ進むのか、それはまだわからない。勉強を続けるのか、それとも働き出すのか、日本にとどまるのか、どこかに外に暮らすのか。中学生のとき以来感じ続けてきた食糧生産のはらむ問題に対し、自分がなし得る問題解決に向けての具体的な方策は未だはっきりとは見えてこない。現在私がいだいている持続可能な農業、持続可能な開発のビジョンは、実世界とすりあわせたら、あまりにもナイーブなものであるのかもしれない。それを目指して働くというのには、理想的すぎて、実社会では通用しない考え方だという意見もあるであろう。

 悩みはするが、あせっても答えはでてこない。現時点で私自身が感ずる問題の所在を明らかにし、それに対して本来あるべき姿の規範的モデルをもつこと、明快なビジョンをもつことから始めていけば、いいのではないか、と正直なところ、楽観的な私は開き直る。

 大学までの間に学んできたことはまさにこの二点、問題点の発見と規範的モデルの抽出、なのだと振り返ってみて思う。「現在こうであることが問題だ」「本来はこうあってしかるべきだ」という二つの視点である。それに対して、問題に対する自分自身の関わり方、「だから私はここをこうするためにこれをする」ということををこれからの学びの中で探していくことが私の今後の課題なのである。



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