道草半生
魚谷弥生
これを書きながら、戸惑いを感じている。果たして、題にあるとおり「道草」をしてきた私の話が一体どれだけ人の参考になるのだろうか、と。私は4年前の4月に大学に入学し、現在も4学年に在籍している。この秋9月に卒業した後、来年4月から社会人になる予定である。大学を4年半掛けて卒業することになる。
しかし、「国際協力」とは言いえて妙な表現で、それに関わる仕事を考えたら実に多岐にわたる。実際私が仕事を見つけるまで、「この分野で仕事をするためには何を、いつ、学べばよいのだろうか」という勉強の悩みの他、「そもそもどのような仕事が自分に向くだろうか」、「一体自分の持っているもので仕事を得られるだろうか」、といった悩みとも常に隣り合わせだった。自分に合うと思われる道を見つけるために、私は大学卒業までに思いつくことを出来る限り試してみた。その結果、卒業が同期より半年遅れるような道草を食ったのである。もちろん、卒業後の方向性がひとまず定まった今、半年くらいの時間がかかったことに後悔はしていないのだが。
ゆえに、何か国際協力に関わりたいと考える人々には、多種多様の選択肢、目指し方があってよいと考える。おそらく、「国際協力の仕事につきたいが何を学べばよいのかわからない」「どういう性格の機関で働けば良いのかわからない」という悩みを持つ学生は多く居ることだろう。ここにある一個人が歩んできた道をご紹介することで、自分の方針に不安を持つ人に少しでも自信を持ってもらえればと願う。
また、あくまでもこれは悩みに悩んで、なかなか道を見出せなかった人間でも最後にはどうにかなった、という実例を紹介するまでのことであって、私は実務経験のない青二才であるから「今後この分野に関わるために人生設計をどうしたらよいのか」という学生の問いに答えるものではないことをご承知いただきたい。
まず始めに、非常に個人的な経験ではあるが「国際協力」という事に興味を持った経緯を簡単にお話したい。この経験が、今でも自分を奮い立たせ努力をしようと考える素になっているからだ。
高校2年生のとき、よくある海外語学研修でイギリス・オックスフォードの語学学校に1ヶ月ほど滞在した。10代の人間も日本人も自分ひとりというクラスの中、言葉が上達したかは怪しいものの、ほかに確かな収穫があった。それがクラスメイトのエリトリア人との出会いである。エチオピアから分離独立して間もないエリトリアから奨学金を受けて勉強に来ていた2人の男性は、私が今までに会った事のない、人を動かす力のある人間だった。
当時の私はエリトリアがエジプトの間違いだろうと考えるほどアフリカに疎く、世界情勢にも疎い頼りない学生だったため、彼らの学習意欲や国の再建にかける情熱は異様に移った。しかし彼らはそんな私にも容赦なく「日本が敗戦後20年程で経済大国になった秘訣は」とか、「日本語を教えてくれ」とか熱くせまった。次第に彼らと話すようになり、聞いてみれば実に興味深い人々という事もわかった。だいたい、同じ国から来た2人の第一言語も違えば使う文字さえ違うというのだから面白い。同じ国民でも違うエスニック・グループの人たちに同時に会う経験など、初めての事であった。
さて、帰国して突然世界地理や政治に目覚めた私は、それまで大学進学も考えていなかったが突然「彼らみたいな情熱ある人と仕事がしたい。できれば国の復興だとか、政治だとかに関係することが。」と考えるようになった。そこで目指したのが大学で政治を学び、できるだけアフリカに関係した知識を身に付けることであった。大学入試の面接でこの話をすると、「国際公務員を目指してはどうか」とアドバイスを受け、ここならその勉強もできると保証された。
ところが、である。希望とやる気をもって大学に入ったものの、それまで学問書も開いたことがなければ世界史などの知識にも疎い私は勉強の難しさに悲鳴をあげ、また周囲にごろごろ国際公務員を目指す優秀な人間がいる事にも驚き、はやくもそれが自分には高嶺の花すぎる仕事であることに気がつくのである。
大学も2年になると、何も国際協力の仕事は国際公務員だけに限られたことではないということがわかった。かといって大して調べたわけではないが、自分には進学、就職、どんな可能性でも残されている、そんな気がした時代である。そして学園祭のときに決定的な出来事があった。翌年から入ろうと思っていたゼミの見学をした折、教授があるゼミ員を紹介してくださった。そのゼミ員から、夏休みに難民キャンプでボランティアをしてきた体験談を聞いて刺激を受けた。
3年に進級し、現代アフリカ政治研究のそのゼミに入ると、やはり勉強の高度さに困難を感じ、「実際に現地を見ないと理解できない」と生意気にも思った私はついに自身もワークキャンプに行くことを決意したのだ。そしてこれを皮切りに、理解者を得にくくなるという苦い経験をも味わう事になった。
というのも、一人娘を得体の知れぬ砂漠じみたところに肉体労働に出す事に両親はもちろん断固として反対した。また、友人たちも「行くと決まってから不安で死んだような目をしている」と言うし、病気が心配になって医者に相談に行けば「そんなに君みたいに神経質だと別の病気になると思うね、やめとけば」なんて言われる始末。わずかに応援してくれたのは教授達や、アフリカ勤務の経験があるOBの方などであった。そして親を説き伏せ不安からは背をそむけて、なかば意地になってケニヤに旅立った。
おそらく、アフリカを見る前にアフリカが本当に好きな人は少ないと思う。どうしても否定的なイメージが頭にあるので、現地に行った時に新鮮な驚きをたくさんする。もちろん嫌な思いもたくさんするのであるが、私は2ヶ月弱の滞在でひきつけられてやまない魅力を感じた。悪性マラリアにかかり、治りきらずに1ヶ月で3度再燃して生きた心地がしなかったことや、最後車で2日間かけてキャンプから首都まで帰る間に別の病気を発病し、首都についてすぐ入院させられた事はもちろん辛かった。が、ほかのボランティアが日本に帰り私だけが2週間近くケニヤに取り残されて現地人に囲まれる中、見たもの、感じたものと言ったら表現の仕様がないほど示唆に富むものだった。退院後は逆にこのチャンスを有難く思ったほどである。
そのワークキャンプより帰国してからである、本格的にNGOの集まりに出てみたり、専門家の現地報告会等に出てみたりして自分の可能性を探り始めたのは。そして、自分のフィーリングに近い国際協力の仕事は何か模索し始めたのだ。また、今回は難民を相手とする緊急援助のボランティアでケニヤに行ったものの、退院後に見た首都で貧しく暮らしている人々の生活にも強く印象を受け、もう一度渡航して今度は開発援助に関係しそうなネタを見つけてきたいとの思いを抱いた。4年生にあがる前の春休み、「卒論の資料集め」と銘打って単身で2ヶ月首都に滞在した。
ただここでジレンマに陥った。国立公文書館といってもたいした資料はないし、スラムや外国人街に通って人々が話を聞かせてくれるのはとても刺激的なのだが私は体調を崩しやすいし、政治が専門なのになぜかやっていることが文化人類学者のように思えてきたのである。当然、帰国してから指導教授に感心されるわけでもなく、やっていることは半端、書きたいことも政治から逸脱していると言われるし、帰ってきてもやりたい仕事が見えてきたわけでもなかった。さらに周囲の学生の中には、初回で病気になったにも関わらずアフリカに2度も渡航した人間と言うことで、非常に冷ややかな目で見てくる人も居た。そういうときに支えになったのは、逆に理解を増してくれた友人達や、原稿書き及び講演をすることで得られた共感者だった。
さて、時系列的に少々前後してしまうが、初めてのボランティアを終えた後、「今の勉強では自分が本当に開発援助や緊急援助の仕事をしたいのか判断できない。論文を書く資料もあまりない。」と現況に不足を感じ、留学を決意した。
といっても、もともと机に向かう勉強が得意な私ではないから、卒業後海外の大学院に突然行って勉強アレルギーでも起こしたら大変と、大学の交換留学制度に応募した。現地の学位がつかない非常に半端な留学ではある(特に私の場合4年生次に留学しかも行き先がイギリスなので、留学を1年待てば交換留学と同じ期間で修士号を取ることもできた)が、情報・知識欲を満たすと言う目的及び自身が海外での勉強生活に耐えうるかを知るという目的を満たすには申し分なかった。
振り返って、留学は学問の面でも人格形成の面でも大変有意義なものであったし、将来の道を選ぶ点でも考える材料を得たばかりか、さまざまな機会を得ることにつながった。着いた当初は勉強が楽しいと生まれて初めて思ったし、このまま大学院に留学してしまおうなどと考えてもいた。ところが、その後劣悪な生活環境やそれに大きく関わる健康問題などに直面し、勉強も大変になってきてからというもの就職も考えざるを得なくなった。このころはひたすら、院に進学されたOB/Gの方々と実業界で活躍されている方々双方に相談に乗っていただくなど、自分の卒業後の選択肢を天秤にかけるような思いであった。
その後しばらくして、留学先で倒れたのをきっかけに卒業後そのまま大学院に進学する考えはやめた。このころ、丁度大学でたくさんの年輩学生と知り合い、彼らのようにある程度(かなりの程度の人もいたが)社会に出てから学校に戻ってきたほうが、私には勉強の価値が大きいかもしれない、より学ぶことがあるかもしれないと考えるようにもなっていた。就職をすることに戸惑いがなくなった。
留学期間も半分が過ぎた3月末から4月末の1ヶ月間にイースター休暇、日本の春季休暇のようなものがあった。これを利用し、保養と就職活動のため日本に一時帰国した。同期の卒業式に参加、学生生活を終えて立派に見える友人達に会って、少々自分が子供に見えた。自身も社会に出る決心をしてよかったとも、この時再認識した。幸いこの時期は日本の大学生が就職活動する時期と重なっていて、数多くは受けられなかったものの内定を受けてロンドンに戻ることが出来た。
ただ「国際協力」に関する仕事ばかりを見つけて受けるのは1ヶ月では非常に困難で、受けたのは3社、そのうち本当に国際協力が柱になっているのは1社のみであった。ここに受からなければ、ほかの内定を辞退してでも将来を考え直したかもしれない。非常に幸運な就職活動だったという他ない。が、ここで特記すべきはどの会社でも私の体験を興味深く質問された事である。体験と言ってもボランティアと留学くらいのものであるし、もちろん「行きました」と言うだけでは今のご時世説得力も目立つこともないのであって、それが決め手になったかといえば実のところわからないのだが。
結果、このようにマイペースな人間でも、方向性について長いこと悩んだり、理解を得られない寂しさを味わったりしながら一応は希望する仕事が、それも国際協力に関わる仕事が見つかったわけである。学生生活4年半の間、楽しいこともあったが将来を考えると辛いことが多かった。もし読者の中で同じように悩み、行き詰まったりあきらめざるを得ないと考えたりしている人が居たら覚えておいて欲しいことがある。それは自分を見失わないこと。そして先行きがはっきりしなくても、自分を出来る限り磨き、物事を投げやりにしない姿勢は後で身を助けるし、たとえ人より時間がかかっても、道草をして後悔しない場合もあると言うことを。